誰かのための自分だけの味
その店だけの味
その人にしか作れない料理
馴染みのお客さんのためだけの料理
そんなふうに誰かが誰かのために心を込めて作ったものは受け取る側の心を豊かにする。
それは与える側だって同じで、顔の見えない大勢のために働くより、よく知っている誰かのために働いている人の方が幸福で満ち溢れていると思う。
だから私は顔が見えるやりとりが好きだ。
例えば野菜を買うとき、市場で〇〇産と一括りにされた野菜より、顔の見える誰かが作った野菜を食べたいと思う。
ここ数年スーパーでもよく見かけるようになった顔のみえる野菜もそういう消費者の心を汲みとってのことだろうか。
この前、新潟に行ってきた時に直売所でクルミを買った。
普段食べているくるみは、アメリカ産の殻が剝いてあるすぐに食べられるくるみだ。
一方で、新潟の直売所で買ったクルミは殻付きで、食べるまでにたいそう苦労した。
くるみは本来食べるまでにこんなも労力を必要とするのかと驚いた。
でもそんな手間も地域のものを食す時の味わいだと思う。
新潟の集落に着いた時、家々に干してある大根が目についた。
ところどころに干してある大根は、なんとも趣があって私の心を和ませた。
昨日、大学の最寄り駅付近にひっそりと店を構える蕎麦屋に入った。
店主が作ってくれる蕎麦は、太さや形がそれぞれ異なり、良い味わいをだしていた。
私はチェーン店はおもしろくないと思う。
同じ形、同じ味、同じような言葉を使う店員、同じ内装。
それは不特定多数の人に効率よく料理を提供するための仕組み。
客も安くて早ければ満足だから繁盛する。
でもそこに誰かのための味はあるのだろうか?
食べ物だけではない。
就活の時だってそう。
みんな同じ服を着て、同じような言葉を発して、同じような方法で就活をする。
そこに個々の味はない。
そんなのつまらない。
私は自分だけの味を社会に提供したいと思う。
誰かと比べて優れているとか劣っているとかではなく、私だから作れる味を提供したい。
私の経験、知識、他人と比べたら大したものではないけれど、この世に私は私しかいない。
だから私はただひたすら私でありたい。